07/06/2026
【小名木善行ねずさんと学ぶ会より】
5月29日 16:01
こちらの写真は、チャールトン・ヘストン主演の「北京の55日」という映画のモデルとなった陸軍大将柴五郎です。
*
ハリウッド映画です。
昭和38(1963)年に製作・公開されました。
義和団に襲撃された北京の外国人居留区の戦いを描いた映画です。
そこで、米海兵隊のルイス少佐に指揮された居留区の外国人が、たった500名の兵力で女性や子供を守りながら、救援部隊が到着するまでの55日間の籠城戦を戦ったという名作映画です。
この映画で、主演のチャールトン・ヘストンが演じた将校は、実在の人物です。
ただし、その人物は、米国海兵隊ではなく、陸軍大将柴五郎の若き日の姿です。
義和団事件というのは、清国の権力者だった西太后が、首都・北京在住の外国人を人質にとって、諸外国に宣戦布告した事件です。
この事件で、北京の公使館区域は、清国正規軍と、義和団の暴徒によって包囲・攻撃を受けました。
そして、4000人以上の外国人たちが百日間の籠城を強いられました。
この時北京に公使館を開いていたのは、英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインの欧米10カ国と日本です。
各国の艦隊は、救援のために北京へと向かおうとするけれど、途中、清国軍に行く手をはばまれ、退却しています。
そして8月に入ってようやくたどり着いた連合国の援軍の半数は日本軍でした。
籠城戦を戦い抜いた柴五郎中佐は、万延元年5月3日(1860年6月21日)会津藩士(280石)柴佐多蔵の五男として生まれた方です
*
P・フレミングの「北京籠城」によると、あるイギリス人の義勇兵はとても人間業とは思えない光景を見たと言って、次のように語っています。
=====
隣の銃眼に立っている日本兵の頭部を銃弾がかすめるのを見た。
真赤な血が飛び散った。
しかし、彼は後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもない。
『くそっ』というようなことを叫んだ彼は、手ぬぐいを取り出すと、はち巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように敵の看視を続けた。
(中略)
戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本兵は、ヨーロッパ兵のように泣き叫んだりはしなかった。
彼は口に帽子をくわえ、かみ締め、少々うなりはしたが、メスの痛みに耐えた。
しかも彼らは沈鬱な表情一つ見せず、むしろおどけて、周囲の空気を明るくしようとつとめた。日本兵には日本婦人がまめまめしく看護にあたっていたが、その一角はいつもなごやかで、ときに笑い声さえ聞こえた。
(中略)
長い籠城の危険と苦しみで欧米人、とりわけ婦人たちは暗かった。
中には発狂寸前の人もいた。
だから彼女たちは日常と変わらない日本の負傷兵の明るさに接すると心からほっとし、看護の欧米婦人は皆、日本兵のファンになった。
======
近年の大震災のときでも、自分のことよりも、人のことを優先する日本人の姿がそこここで見られました。
日本人はいまも昔も日本人なのです。
連合軍の攻撃が成功し北京が解放された後にも、柴中佐は、抜群の民政と治安維持を行いました。
清国兵と義和団の暴徒を追い払ったものの、暴力や略奪者が横行する北京において、いち早く治安を回復できたのが「日本軍占領区域」でもあったのです。
そのため他国の占領区域から、日本占領区域に移り住む市民が後を絶ちませんでした。
町は日に日に繁昌しました。
日本軍は横行する強盗や窃盗、無頼漢らは、容赦なく捕えて厳罰に処しました。
また暴行・略奪をした外国人兵士(その筆頭がロシア兵だったそうです)を捕えると、彼らの軍司令部に突き出したのです。
このため事件後も、北京に住む中国人の一般市民は、日本軍を「義軍」として讃え、競って日本軍の占領下に入ってきました、
施政者が何を言おうが、学者モドキがいかなるウソを並べようが、民衆は、自分たちの本当の庇護者は誰なのかよく知っているのです。
庶民を苦しめてなんとも思わない施政者と、庶民の平和と安定と保護を第一に考える日本軍。
北京の一般市民が、そのどちらを頼りに思ったかは、火を見るよりも明らかなことです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2071.html
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こちらの写真は、チャールトン・ヘストン主演の「北京の55日」という映画のモデルとなった陸軍大将柴五郎です。
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ハリウッド映画です。
昭和38(1963)年に製作・公開されました。
義和団に襲撃された北京の外国人居留区の戦いを描いた映画です。
そこで、米海兵隊のルイス少佐に指揮された居留区の外国人が、たった500名の兵力で女性や子供を守りながら、救援部隊が到着するまでの55日間の籠城戦を戦ったという名作映画です。
この映画で、主演のチャールトン・ヘストンが演じた将校は、実在の人物です。
ただし、その人物は、米国海兵隊ではなく、陸軍大将柴五郎の若き日の姿です。
義和団事件というのは、清国の権力者だった西太后が、首都・北京在住の外国人を人質にとって、諸外国に宣戦布告した事件です。
この事件で、北京の公使館区域は、清国正規軍と、義和団の暴徒によって包囲・攻撃を受けました。
そして、4000人以上の外国人たちが百日間の籠城を強いられました。
この時北京に公使館を開いていたのは、英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインの欧米10カ国と日本です。
各国の艦隊は、救援のために北京へと向かおうとするけれど、途中、清国軍に行く手をはばまれ、退却しています。
そして8月に入ってようやくたどり着いた連合国の援軍の半数は日本軍でした。
籠城戦を戦い抜いた柴五郎中佐は、万延元年5月3日(1860年6月21日)会津藩士(280石)柴佐多蔵の五男として生まれた方です
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P・フレミングの「北京籠城」によると、あるイギリス人の義勇兵はとても人間業とは思えない光景を見たと言って、次のように語っています。
=====
隣の銃眼に立っている日本兵の頭部を銃弾がかすめるのを見た。
真赤な血が飛び散った。
しかし、彼は後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもない。
『くそっ』というようなことを叫んだ彼は、手ぬぐいを取り出すと、はち巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように敵の看視を続けた。
(中略)
戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本兵は、ヨーロッパ兵のように泣き叫んだりはしなかった。
彼は口に帽子をくわえ、かみ締め、少々うなりはしたが、メスの痛みに耐えた。
しかも彼らは沈鬱な表情一つ見せず、むしろおどけて、周囲の空気を明るくしようとつとめた。日本兵には日本婦人がまめまめしく看護にあたっていたが、その一角はいつもなごやかで、ときに笑い声さえ聞こえた。
(中略)
長い籠城の危険と苦しみで欧米人、とりわけ婦人たちは暗かった。
中には発狂寸前の人もいた。
だから彼女たちは日常と変わらない日本の負傷兵の明るさに接すると心からほっとし、看護の欧米婦人は皆、日本兵のファンになった。
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近年の大震災のときでも、自分のことよりも、人のことを優先する日本人の姿がそこここで見られました。
日本人はいまも昔も日本人なのです。
連合軍の攻撃が成功し北京が解放された後にも、柴中佐は、抜群の民政と治安維持を行いました。
清国兵と義和団の暴徒を追い払ったものの、暴力や略奪者が横行する北京において、いち早く治安を回復できたのが「日本軍占領区域」でもあったのです。
そのため他国の占領区域から、日本占領区域に移り住む市民が後を絶ちませんでした。
町は日に日に繁昌しました。
日本軍は横行する強盗や窃盗、無頼漢らは、容赦なく捕えて厳罰に処しました。
また暴行・略奪をした外国人兵士(その筆頭がロシア兵だったそうです)を捕えると、彼らの軍司令部に突き出したのです。
このため事件後も、北京に住む中国人の一般市民は、日本軍を「義軍」として讃え、競って日本軍の占領下に入ってきました、
施政者が何を言おうが、学者モドキがいかなるウソを並べようが、民衆は、自分たちの本当の庇護者は誰なのかよく知っているのです。
庶民を苦しめてなんとも思わない施政者と、庶民の平和と安定と保護を第一に考える日本軍。
北京の一般市民が、そのどちらを頼りに思ったかは、火を見るよりも明らかなことです。
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